平安の女たちは、なぜ堂々と欲を詠めたのか
いま「欲望を短歌にする」と言うと、どこか後ろめたい響きがある。けれど千年前のこの国では、それは文化のいちばん雅な部分だった。
平安の貴族社会では、高貴な女性は男性に顔を見せなかった。御簾の内から、気配をうかがうだけ。だからこそ、歌のやりとりそのものが恋だった。逢う前も、逢ったあとも、別れの朝も、すべては三十一文字で交わされる。歌が巧いかどうかが、そのまま恋の行方を決めた。欲望を言葉にする技術は、恥ではなく、教養の頂点だったのだ。
天皇の命で編まれた最初の勅撰和歌集『古今和歌集』には、恋の歌だけで五巻が割かれている。しかもその並びは、見初めて悶々とする「まだ逢えぬ恋」から、ようやく結ばれる「逢う恋」、そして禁じられた逢瀬の代償に涙する「逢って逢えぬ恋」へと、まるで一編の物語のように進んでいく。国家の正式な書物が、人の欲望の起伏を、一つの作品として保存していた。
詠み手には、女性が多くいた。小野小町、和泉式部——彼女たちは恋の昂ぶりも、夜の余韻も、隠さずに、けれど露骨にではなく、比喩と余白で詠んだ。直接書かないことで、かえって濃く伝える。その作法は、千年を経たいまも、まったく古びていない。
桃色文学がやろうとしているのは、新しいことではない。いちど忘れられた"欲望を美しく言葉にする"という、この国の古い習慣を、現代の言葉で思い出しているだけだ。